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安東能明『ポセイドンの涙』書評(月刊ポンツーン8月号) 大森 望

 
福知山線脱線事故のニュースを最初に耳にしたとき、反射的に思い出したのが安東能明の『15秒』だった

時間をテーマにしたこの異色ミステリには、日勤教育の恐るべき実態まで含めて、秒単位の時間に縛られた
JR運転士の苛酷な日常が生々しく描かれていて、今となっては予言的にさえ見えるかもしれない。


 この『15秒』に限らず、安東能明の長編は、よくある情報小説の枠を超えて、
息苦しいほどの密度で現場のリアリティを読者に実感させてくれる。

物流の内幕に鋭く切り込んだ『漂流トラック』、駅伝TV中継の舞台裏をスリリングに描く『強奪 箱根駅伝』など、ふだん見慣れたものの背後に潜む「現実」を鮮やかに描き出すのが特徴だ。

惜しむらくは、圧倒的にリアルな反面、派手な事件を描いてもどことなく地味に見えてしまう傾向があるのだが、中身のないテレビドラマ的な大風呂敷にうんざりしている読者にとっては、
小説らしい読み応えを保証してくれる作家なのである。

 ひさしぶりの新作書き下ろし長編となる本書、『ポセイドンの涙』では、全長53・85キロメートル、
世界最長を誇る青函トンネルが主役をつとめる。この5月、2015年の開業をめざして
北海道新幹線がついに着工し、青函トンネルがあらためて脚光を浴びているのはご承知のとおり。
掘削工事がはじまったのは1964年で、開通は1988年。24年間に及ぶ大工事の経緯は、
NHK『プロジェクトX』でもとりあげられている(「友の死を越えて 青函トンネル・24年の大工事」)。
このトンネル掘りに命を賭けた男たちのドラマが本書の背景になる。

 小説の現在は、2004年9月。青函トンネル作業坑の壁から男性の死体が発見される。
場所は津軽海峡のほぼ中心、海面から240メートル(海底からさらに100メートル下)地点。
やがて男性の身元は、25年前に行方不明になった内田保だと判明する。
いったいだれがどうやって死体をトンネルの壁にコンクリートで塗り込めたのか。内田はなぜ死んだのか。

 この事件の捜査にあたるのが、北海道警察松前署刑事生活安全課の課長、田口旭彦。
札幌の道警本部総務課から半年前に飛ばされてきたばかりで、地元の事情には疎い。
そのため、土地の生き字引みたいな叩き上げの老刑事、菅沼が案内役となり、
読者は田口といっしょに青函トンネルの基礎知識を学んでいくことになる。

 小説のもう一方の主役は、パリでファッションデザイナーとして大成功した三上連。
世界的に有名なブランド『REN』の担い手として、大手からの誘いが引きも切らない。
にもかかわらず、連はなぜか、パリコレを目前に控えたこの時期
、25年ぶりに故郷の函館にもどり、小さなブティックを開く。
連が函館の街で再会したのは、水産工場で働く幼なじみの政人。ふたりは、かつて、
ある秘密を共有していた。その鍵を握るのは、由貴という少女だった……。

 ここから、物語はふたりの中学生時代へと遡り、秘められた過去がじょじょに明かされてゆく。
連が心ならずも函館に戻ってきたのは、25年前の出来事が原因だった。

 華やかなファッション業界に生きる現在と、捨て去ったはずの暗い過去との対比。
松本清張の『砂の器』はじめ、日本のミステリーでも何度となく変奏されてきたモチーフだが、
本書を読みながら僕が思い出していたのは、リチャード・ノース・パタースンの『サイレント・ゲーム』。
パタースン同様、安東能明も、四半世紀の歳月を経て、故郷で再会した昔の仲間たちの現在と過去、
それぞれが歩んできた人生の重みをじっくりと描き出す。

 やがて、青函トンネルの内部で第二の殺人事件が発生。ファッション業界がらみの犯行と目星をつけた田口率いる捜査班は連と政人に接近する。犯人はだれか? 
連を函館に呼び寄せた姿なき脅迫者の正体は? 

後半はミステリ的などんでん返しが連続し、目が離せない。そしてラスト――。

「トンネル全体では、毎分、二十四トンもの水が絶え間なく湧き出ている。なんらか
の理由で、これらのポンプが停止した場合、わずか八十時間でトンネルは水没する」
 本書の最初に置かれたこの一文が『ポセイドンの涙』という題名と重なるとき、物
語は文字どおり怒濤のクライマックスへと雪崩れ込む。

北海道新幹線のニュースを目にするたびに、この小説を思い出すことになりそうだ。