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   Essay by Yoshiaki Ando

                            安東 能明・作



                 音楽は死に向かう

 学校に通っていた頃、楽譜というものがほとんど読めず、音楽の授業が嫌いだった。それでも、聴くこと自体は好きで、それなりに広いジャンルの音楽を、今でもそこそこ聴いている。執筆で煮詰まったときなど、車の中でロックをがんがん鳴らすと、結構憂さ晴らしになったりして、音楽の薬効はかなり大きい。調べものをするときはクラシックをお供にすることが多い。そんなときは、たいがい、ラジオのFM放送にチャンネルを合わせる。作者も題名も知らないが、落ちついた音楽が流れてきて、ことの外重宝している。

 一年ほど前だろうか、車に乗っていたとき、ポップス系の番組で音楽家の服部克久さんのお喋りが流れてきて、おやおやと思ったことがある。曲の合間の軽いつなぎだったが、「もう、メロディーはあらかた出尽くしてしまって、この先、あまり期待できない」といった内容だった。ふと、口にされたという程度のものだったが、どうした訳かその言葉が気にかかった。

 音楽の三要素は、旋律(メロディー)、和音(ハーモニー)、拍子(リズム)だが、その中でも、メロディーは最も大切な要素だろう。メロディーはたくさんの音符の組み合わせで出来ている以上、無限の配列が可能ではないだろうか、と思ったのである。出尽くしてしまったのでは、あまりにも悲しい。リズムやサウンドの派手さだけで競うしかなくなってしまう。きっと違う、これからも天才が現れて、心地よい旋律を作ってくれるだろうと思うことにした。ところが、つい最近になって、サザンオールスターズの桑田佳祐氏のFM番組を聴いていたときのこと、やはり、同様に「メロディー」は出尽くしたという話を、服部氏と同じようにされていて驚いた。やはり、配列には限りがあるのだろうか? 門外漢のわたしが知らないだけで、音楽家たちの間では、定説になっているのだろうか?
    
                                          (了)