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Essay by Yoshiaki Ando![]()
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| 安東 能明・作 魔が差して 東京、上野のとある場所で、考古学に関する展覧会が行われていた。通常の展示物のほかに、呼び物として、ひところ世間を騒がせた発掘捏造事件で、実際に捏造に使われた偽物の石器が展示されているという。このことを知って、少しばかり複雑な心境にさせられた。 確かに、あの事件で使われた偽物が展示されていれば、ちょっと覗いてみたくなるのは人情である。呼び込みのための道具として、割り切って主催者側も展示を決めたのだろうし、うがった見方をすれば、自戒の意味を込めて、広く一般大衆の目に触れさせる機会を作ったともとれる。 捏造事件については、マスコミで数々の報道や批判がなされた。事件の背景には、大規模な遺跡を種にした、地域開発が絡んでいるとした本まで出ている。私は考古学には詳しくない。小学生の頃、自転車を何キロも漕いで山の中に入り、畑の土を掘り起こして縄文式の石器の発掘にいそしんだというささやかな経験があるだけである。だから、それらの本や論文を読んでみようという気にはなれない。直感から言って、とても残念なことだったなあ、と思っただけである。 捏造した本人は、記者会見の席で、“魔が差した”とのたもうたが、それにしては、繰り返し繰り返し、何年にもわたって“魔が差した”ものだなあ、とあきれて見ていた。そして、つくづく、“魔が差した”という言い方は便利なものだ、と思った。すべからく、その言葉を使えば、当面は申し開きできるのである。受け取った側も、ああ、この人は、色々やむにやまれぬ事情があって、悪いとは知りながらも、ついつい、やってしまったのだなあ、と何となく、それはそれで納得してしまうのである。 これは捏造事件に限ったことではない。民事、刑事、事の大小に限らず、およそ人間の絡んだ事件と名のつくものに関わる当事者たちにとって、まことに便利な言い回しである。 (了)
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