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Essay by Yoshiaki Ando![]()
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安東 能明・作![]() 五十五年目の帰還 機会があり、かつて日本陸軍が使用した四式戦闘機を間近に見て触れることができた。実戦で使われた機体である。通称、「疾風(はやて)」と呼ばれ、傑作機と言われた「隼」よりもひとまわり大きく飛びぬけた性能を持ち、中島飛行機の作った最高機とされている。重さは三・八トンあり、航続距離千キロを誇るエンジンは複列星型空冷式で、二千馬力、最高速度六百八十キロを記録したという。 わたしの見たものは、そのエンジンの一部だった。細かな襞の入った黒いシリンダーはねじれてひしゃげ、台座とおぼしい部分にも激しい損傷があった。この機体は第二次大戦中、ビルマ(現ミャンマー)の防空任務についており、ラングーンに現れた百機編隊の連合国軍と戦って撃墜された。時は、昭和十九年十一月四日。昨年、現地で用水路の建設中に発見されたものだった。 機体とともに、遺骨の一部、歯、靴などが見つかり、中でも印鑑が決め手となって操縦していた本人の確認ができた。それらをすべて旧陸軍の関係者が日本に持ち帰り、倉庫に保管してあった機体部品をわたしは見たのだ。苦労の末、遺族が見つかり、遺骨が引き取られていったと聞いてほっとした。 驚かされたのは、部品の重さだった。シリンダー一つ持ってみても、ずっしりときた。持ち帰った部品のすべてをあわせると、四十キロ近くになったという。ビルマの上空で血みどろの戦いをしていた情景がまざまざと浮かんだ。しかし、これをどうやって、運んできたか。普通の荷物と同じように、関係者二人して手ずから民間航空機に運び入れ、持ち帰ったのだという。わたしは二度驚かされた。戦没者の遺骨収集は、国が行っているが、こうしたものまでは手が回らないのが実情だろう。部品はすべて洗い清められ、靖国神社に奉納された。引き取り手はそこしかない。 |